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『父の秘密』
オフィシャル・インタビュー

2013-10-11 更新

マイケル・フランコ監督


父の秘密lucia
Despues de Lucia © 2012

マイケル・フランコ監督

 1979年メキシコシティ生まれ。短編映画制作からキャリアを始める。政府の腐敗を批判した「CUANDO SEA GRANDE」(01)が、メキシコでは500スクリーンで上映された。次に制作した「ENTRE DOS」(03)では、ウェスカ映画祭で特別賞を受賞、ドレスデン映画祭では最優秀短編映画作品賞を受賞。同時期、彼は会社を作り、CMやミュージック・ビデオのプロデュースを始め、高い評価を得る。
 初長編監督作「Daniel and Ana」(09)は、カンヌ国際映画祭監督週間に選ばれたことをはじめ、各国の国際映画祭に招待され、メキシコはもちろんスペイン、フランスそしてアメリカなどで広く公開され、批評家や観客に高い支持を得た。
 続く本作では第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリに輝き、第85回アカデミー賞®外国語映画賞メキシコ代表にも選ばれた。

 第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリに輝き、アカデミー賞メキシコ代表に選出された『父の秘密』。現代を不気味に覆い尽くす〈暴力〉を透徹した眼差しをもって描き上げた弱冠31歳の新鋭監督マイケル・フランコにインタビューが届いた。


この作品の主題は暴力ですが、野心的に思われるのが嫌でずっと言えませんでした


 撮影中は、あまりにも野心的に聞こえると嫌だったので「暴力に関する映画」に取り組んでいると言うことにためらいを感じていました。けれども撮り終えた今は自信を持って言いましょう。luciaこの映画の本質は、様々な形での暴力です。いじめのことだけを指しているのではありません。道で父親が起こしてしまうことも、父親が働いている場所で起きることも「暴力」なのです。この物語の父と娘の関係性―もしくは壊れてしまった関係―でさえも、ある意味「暴力」であることがわかるでしょう。意識したのは、登場人物たちの残酷な本能を、扇情的にせずスクリーンに出し続けることでした。そうしたのは、観客に観ているものとの距離を感じてもらいたかったからです。登場人物の暴力への衝動、そしてその結果、彼らの関係がどうなるかをこの映画で描きたかったのです。


いじめ問題の映画ではありません。リアルに描いたので、そこがピックアップされていますが、あなたの隣で起きていることだということを感じさせたかった


 メキシコは、一歩外に出るともう戦場のようなものなので、僕が書き上げたことはあまり驚くようなことではありません。メキシコ自体が血気盛んな国なので、脚本に出てくるエピソードは特に苦労せずに書くことができました。それに、これはメキシコだけじゃなく、世界各国で起きている、起こり得ることでしょう? ノルウェーでだって、アメリカでだって…いじめや暴力のない国なんかないはずです。

 『父の秘密』は「Daniel and Ana」(09)に続く僕の長編第2作です。少ない経験の中で、なんとか映画が面白くなるような要素を考えたのですが、それはまったく使えないアイデアでした。その代わり、どのシーンでも撮影中に神が下りてくるものなのです。僕はいつもアンテナを張り巡らせていましたし、自分をこんなにも悩ませている物事に、生気を吹き込もうと努めていました。


いじめを受けているのにそのことを話せない子ども、最愛の人の死によって生きることをやめた大人。彼らにはそれぞれモデルがいて、ずっと僕の心にいたのです


 『父の秘密』は、2つの事柄から生まれた映画です。まず1つ目は、最愛の人の死から立ち直れない時、人は残された他の人の存在を忘れるものだろうか、という疑問でした。子どもの頃、近しい人が亡くなった悲しみから立ち直れない人を見てから、ずっと思ってきたことでもあります。彼にとっては、どんなに時間が経っても、その人の死は「現在」のもので、そのため彼はまわりのすべての物事を受け入れられなくなりました。これは、僕にとって衝撃的な経験でした。

 2つ目はある出会いです。僕は、学校で驚くほど残酷ないじめを1年以上も受けていた青年と出会いました。彼のクラスメートはなぜそんなにも残酷な行為ができるのか? そしてなぜこの子は自分が受けている拷問を誰にも言わなかったのか? 親にも彼は言えなかった。その理由を掘り下げたいと思いました。このことからロベルトとアレハンドラのキャラクターが生まれました。


キャラクターを膨らませていくと、あまりにも悲しい物語になってしまいましたが、これは愛情に根付いた物語です


lucia 娘のアレハンドラは、学校で受けるあらゆるいじめに耐えますが、なぜ誰にも相談しないかと言えば、父・ロベルトにこれ以上悩みを持ってもらいたくないという思いからでした。彼女は早く父に母・ルシアの死から立ち直ってもらいたかったのです。アレハンドラは、今や二人きりとなってしまった家に、母がいた頃のような幸せや平穏を取り戻そうとし、自分が強くならなければと思うようになります。しかし、彼女にとってそれは荷が重すぎました。なぜなら、父だけでなく彼女もまだ悲しみを癒すことができずにいたからです。

 こうして父と娘の絆はバランスを欠いていきます。アレハンドラは家族の中での女性的役割(それまでは母がやっていたこと)を果たそうとします。一方、父はそんな娘にどう接していいのかわかりません。彼は、彼女が何を望んでいるのかもわからないのです。さらにアレハンドラは思春期で、自分の世界を築いている最中です。彼女こそ頼れる人を必要としていたのです。


学校の世界を映し出すには俗悪と言われようと、徹底したいやらしさが必要でした


 彼女のクラスメートたちは、アレハンドラがいじめに耐え、さらにはそのことを誰にも言わないことを確信していました。彼らは彼女の事情も、その境遇さえも知っていますが、同情する代わりに弱みにつけ込み、いじめはどんどんエスカレートしていくのです。luciaこうしたいじめは、普通のどこにでもある教室で起こっています。メキシコだけではなく、世界のどの国にもいじめのない学校なんてありません。今やいじめは薬物問題と同様に学校生活の中でどうにかしなくてはいけない重要な問題ですが、しかしそのための学校の機能がうまく働いていないのです。学校は生徒たちを見張る機能を持っていますが、その私生活まで探ることはできません。もしそんなことができたとしたら、ますます危険なことになってしまいますが。学校の世界を映し出すには、ある種徹底したいやらしさが必要でした。生徒だけではありません。学校自体にもそれは出したかった。アレハンドラという子どもが声なき悲鳴をあげているのに、それを無視する世界でなければ彼女は逃げ出さなかったでしょうから。


競争社会というものは、人の痛みを無視するものです


 どんな集団社会でも、支配する者、される者という線引きが必ずあります。学校時代には、経験や知識の不足や未熟さによってなおさらこの線引きが強調されるように感じます。どんな遊び場でも行われている、一見無害なゲームの中にさえ、権力闘争の意図が隠されているのです。人間の成長過程において、子どもたちの残酷ともいえる本能は大抵そうした時に垣間見えるものです。最下位の子が傷つくからって、テニスのトーナメントがなくなるなんてありえないでしょう。もし、そういうことを言う人がいたら狂っていると思いますが、競争して勝ち負けを決めるということは、人の痛みを無視する行為なのかもしれません。だとしても、なんと多くのいじめ被害者たちが、黙ったまま自殺することを選ぶのでしょうか。しかしながら、私はそういういじめの実態報告のような作品を撮りたかったわけではありません。ただ、観客が理解しやすい題材として、この問題を選んだのです。


父の心が生き返るタイミングの皮肉と不幸は、父と娘が間違った選択をし続けたことによって引き起こされます


lucia この映画で、父の心は死んでいますので、彼は娘に何が起きているのかさえ気づきせん。それでもなんとか仕事をするだけの気力を持とうとしていますが、その辛さを誰にも打ち明けません。彼が少しも前向きにならず、周囲に打ち解けないがために、愛情ある支えを受けられないのです。彼は悪者ではありません。心は弱いが優しい人間なのです。愛する者を失ったら誰だってそうなるでしょう。娘がどん底に追いやられたその時、父に相談していたら、まさにその時こそがロベルトが命を吹き返すきっかけとなり事態は好転したでしょう。しかし、アレハンドラは自分が犠牲者となっていることに目的を持たせるため、彼を残して突然姿を消すことを選ぶのです。ロベルトは娘の状況が悪くなっているのを知りませんでしたが、それが一つずつ発覚するたびに、彼の心は生き返っていくのです。父と娘は、自分たちが最も必要としていることを選ばずに間違いを犯します。最愛の人が消えて、父がどう思うかを娘は考えなかったのでしょうか。いじめがばれないとでも? 重要な時点での父と娘の選択の間違いが、最後の決断へと父を駆り立てます。それが、僕が描きたかった皮肉と不幸なのです。


テッサ・イアがいなかったら、この作品はそもそも映画になっていなかった


 映像を自然で現実感のあるものとするために、私はこの作品で試行錯誤を繰り返しました。自分で脚本を書いたので、登場人物たちが次にどんな行動を取るかを正確に知っていたことが、とても役に立ちましたね。撮影が進むにつれ、俳優たちがどんどん「現実化」して行くのを間近で見られたことも良かったと思います。

lucia アレハンドラを演じたテッサ・イアは、彼女が11歳の時に出演したギジェルモ・アリアガ監督『あの日、欲望の大地で』(09)がデビュー作でしたが、すでにどうしたら自然な演技ができるのかを知っていました。彼女は多くの子役がよくやる大げさな表情を作りませんでした。実はこの作品は当初、娘ではなく息子で想定していました。私は彼女の母親を知っていたので、当然彼女のこともとても小さいころから知っていました。ある日、テッサと話をしていて、急に彼女がこの作品の主要人物としてぴったりだと思ったのです。それからテッサの家族の友達として、僕は彼女の家で長い時間を過ごしました。それが、スクリーン上で彼らが自然に映るような脚本作りを容易にしたのでしょう。


クラスメートは、ほとんどがテッサの友人で、素人です。しかし、みんなあんなことはしていませんよ。この映画で危惧したのは、彼らのメンタルに悪影響が出ることでした


 映画に出演している子どもたちは、テッサのクラスメートや友達にお願いしました。彼らは誰もプロの俳優ではありませんでしたが、全員敏感な十代であることが彼らの役柄に真実をもたらしましたし、また彼らも映画製作の過程を十分に理解してくれました。準備期間で演技のレッスンを積み、撮影を始めた時には生意気にもアドリブを入れるようにもなりました(笑)。心配だったのは彼らに対し、役柄がもたらすだろう悪影響です。健全な生徒たちではなく、ねたみや嫉みで残酷ないじめをする役なわけですから。精神科医をつけました。おかげでテッサと彼らは今も仲良しです。また、何人かは俳優になりたいと言ってくれます。とても嬉しいことです。


(オフィシャル素材提供)


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