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トップページ > インタビュー > 『練習曲』チェン・ホァイエン監督&イーストン・ドン インタビュー

チェン・ホァイエン監督&イーストン・ドン インタビュー

2008-08-30 更新

この映画を通じて、自転車で台湾をぐるりと一周したような経験をしてもらいたいと思ったのです

練習曲

チェン・ホァイエン監督

1982年、世界新聞専科学校(現・世新大学)写真学科卒業。83年から映画制作に携わり、『ナイルの娘』(87)、『非情城市』(89)、『好男好女』(95)、『憂鬱な楽園』(96)といったホウ・シャオシェン監督作品の撮影を手がける。98年からはテレビCMにも進出し、これまで100本以上を手がける。

イーストン・ドン

華梵大学美術学部卒業。美術デザイナー・モデルとして活動、台湾版ドラマ『ハチミツとクローバー』にも出演。本作で映画デビューを飾り、本人同様に聴覚障害を持つ大学生役を好演している。最新出演映画は、バービィー・スー、エディ・ポン、ジョセフ・チャン出演の『愛的発声練習』(2008)。

問い合わせ:エスピーオー
8月23日(土)~9月26日(金)、シネマート六本木他全国順次開催

 「台湾シネマ・コレクション2008」で上映される『練習曲』は、ホウ・シャオシェン組で長く撮影を手がけたチェン・ホァイエンの初監督作品。自転車で台湾一週の旅に出た青年が、様々な人々と自然と出会うロードムービー、昨年台湾で大ヒットした。主役の青年ミンを演じたのは、自らもミンと同じく聴覚障害を持ちながら、デザイナー、画家、俳優として活躍中のイーストン・ドン。映画祭の開催を控え揃って来日し、本作の魅力を語ってくれた。

タイトルを『練習曲』とした理由は? この映画を撮ろうと思ったきっかけは?

チェン・ホァイエン監督: 最初の構想段階では、もうすぐ大学を卒業する男の子が台湾を一周するストーリーだけがありました。その時、主役の男の子が海辺にすわり、ギターで練習曲を弾いている画が頭に浮かびましたが、これが出発点となり、『海辺でギターを練習する男の子』というタイトルがひらめきました。でも、それではあまりにも長すぎます。脚本が上がる頃にどんなタイトルが相応しいか考えましたが、他には良い候補がないので、映画の内容に相応しい『練習曲』にしました。もうすぐ大学を卒業し、人生の新たな旅立ちをする青年が奏でるギターの曲ということで『練習曲』にしたわけです。練習曲は英語で言うとEtude(エチュード)ですが、元々フランス語で「努力をする」とか「励む」という意味です。ですから、人生の勉強という内容にぴったりだということで、『練習曲』に決めました。
台湾を一周することは台湾の人たちにとっては日常的なことで、「環島」と呼ばれ聞き慣れた言葉ですが、実際に行動に移している人はそれほど多くありません。というのも、自転車で一周するとなると、とても時間がかかるからです。社会人だと約10日間の有給休暇を取らないと行くことができません。聞く機会は多いがなかなか実現できない、こういうことは若い時にやらないと、中年を過ぎて時間が出来てから、あるいは退職後に時間が出来た頃にならないと実現できません。ですから、台湾の人たちに、この映画を通じて自転車で台湾をぐるりと一周したような経験をしてもらいたいと思ったのです。それが、このような映画を作った最初の動機です。

イーストン・ドンさんは、デザインや執筆で表現活動をされてきましたが、初の映画出演では、自分の変化や、従来と表現活動と違った楽しみは発見しましたか?

イーストン・ドン: 以前は悩み事がとても多く、自分の人生はスムーズにはいかないなと悲観的になっていましたが、この映画に出演させていただいたことが大きなターニング・ポイントとなりました。映画に出演すると、平凡な日常生活から一転し、非凡な場面に直面するわけですが、この映画に出演し演技をすることによって、人との付き合い方も大きく変わりました。自分の心の窓が開き、世界が広がったような感じがして、すごく楽しんで生活ができるようになりました。できるだけ多くの人の話を聞きたいと思うようになりましたし、困っている人がいたら自分から進んで助けるようになりました。このように、この映画への出演は、僕の人生を大きく変えることになったのです。

チェン・ホァイエン監督は、脚本段階からイーストン・ドンさんの起用を考えていたのですか?

チェン・ホァイエン監督: ぜんぜん(笑)。脚本を書いている時は彼のことは全く知らなかったので、彼の存在は頭の中にありませんでした。最初に書いていた脚本は実際に映画化したものよりかなり長く、自転車で旅行する青年が出会う人たちがもっと多く、連ドラにすることができるほどでした。ひとりひとりの人との出逢いの物語がとても長くて映画化するのは難しかったのですが、それを100分で台湾を一周する映画に仕上げたわけです。その内容はイーストンに会ってから決めたのです。イーストンとはたまたまある現場で出会ったのですが、その瞬間、彼の持っている独特な雰囲気に興味を持ちました。おそらく、それは直感だと思います。彼に対して大きな好奇心を持ちましたし、ある程度の距離感も感じました。私の考えている主役にピッタリだと思ったわけです。そして、彼が出演を了承してくれてから、脚本を書き直しました。

イーストンさんは美術やモデルといった仕事をされてきましたが、映画の出演ではどのような魅力を感じましたか? また、今後も映画の仕事を続けていきたいですか?

イーストン・ドン: 美術やモデルの仕事も映画の仕事も、これから一生続けていきたいと思っています。映画のために演技をすることは、とても魅力的な仕事です。演技というのは本当に魅力的で、今まで見えなかったような世界を僕に与えてくれるので、他の仕事と結びつけて歩いていきたいと思っています。

劇中、日本の植民地時代の地元の娘と日本人青年との悲恋として伝えられている「サヨンの鐘」のゆかりの地が登場します。日本でも、かつてこの話はベストセラーになりましたが、今の台湾でも「サヨンの鐘」は有名で好意的に受け止められているのでしょうか?

チェン・ホァイエン監督: 「サヨンの鐘」は日本の統治時代の話で、ひとつの事件だったわけです。当時の資料は多く残っていますが、実際には台湾でも地元の人以外はそれほどよく知っているわけではありません。ただし、地元である台湾東北部の宣蘭(ぎらん)の人たちは、「サヨンの鐘」を観光開発の目玉として利用しています。台湾でも、週休二日制が導入されてから、余暇の時間が増え旅をする人も多くなりましたが、宣蘭(ぎらん)では「サヨンの鐘」の記念公園を作り、トイレや休憩所も設けました。でも、大部分の人たちは「サヨンの鐘」についてよく知りません。簡単な説明が記念碑に書かれてあるだけです。このように、今では「サヨンの鐘」は観光スポットとして残っているわけです。
台湾では、「サヨンの鐘」についてなかなか面白い誤解が広がっています。この映画の撮影前にいろいろな資料を調べましたが、「サヨンの鐘」の意義についてもよく調査しました。「サヨンの鐘」については、作詞が西條八十、作曲が古賀政男による日本の曲がありますが、この曲に台湾で独自の詞をつけた『月光セレナーデ』という曲が大流行しました。その歌詞はラブ・ストーリーだったので、「サヨンの鐘」は日本人の先生と教え子であるサヨンのラブ・ストーリーだったのだという誤解が広まりました。私はサヨンの姉のお子さんたちにも取材をしましたが、日本人とサヨンの恋は誤解だという証言も得ています。1941年には李香蘭主演で映画化され、こちらもヒットしましたが、李香蘭が演じたサヨンとシャンランという男性とのラブ・ストーリーであり、先生との恋を描いたのではありませんでした。(註:「サヨンの鐘」 1938年、日本統治下の台湾台北州蘇澳郡蕃地のタイヤル族の村、リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査に召集令状が届き、出征することになる。村の教師も勤めていた巡査は住民からの人望も厚く、山を下りる際多くの青年たちが荷物持ちをかってでるが、その内のひとりである17歳の少女サヨンが足を滑らせて川に転落し水死する。当時の大日本帝国台湾総督府は格好の愛国美談として利用、サヨンを表彰する鐘と碑が遭難現場に作られた他、歌謡曲、映画も作られた。)

ファクトリー・ティータイム

饒舌な監督のお話で、「サヨンの鐘」の話が大部分を占めるという想定外の結果に……。作品については、ホウ・シャオシェン監督作品のように、私たち日本人にとってはどこか郷愁を感じる風景が次々を現れる。旅先で出逢う人たちも印象的で、心地よい旅を体験することができる。観終わった時、清々しい気持ちと共に台湾に行きたくなるはずだ。
(文・写真:Kei Hirai)


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