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トップページ > インタビュー > 『中国の植物学者の娘たち』ダイ・シージエ監督 インタビュー

ダイ・シージエ監督 インタビュー

2007-12-11 更新

やはり私は中国人ですから、書きたいものも描きたいものも、中国にあるのです

中国の植物学者の娘たち

ダイ・シージエ監督

1954年3月2日、福建省で医師の両親のもとに生まれる。17歳から3年間、文化大革命により四川省の山村に下放。文革終了後に、四川大学で西洋美術史を学び、1984年には政府給費留学生としてパリに渡り、映画に目覚める。パリ高等映画学院IDHECに入学、16mmで撮った27分の短編が各国の映画祭で評価される。1989年には長編第1作『中国、わがいたみ』を発表、カンヌ国際映画祭監督週間に出品され、ジャンゴ・ヴィゴ賞を受賞する。2000年にフランス語で執筆した『バルザックと小さな中国のお針子』で小説家デビュー、2002年には『小さな中国のお針子』として自ら映画化、各国で高い評価を得た。

配給:アステア
12/15(土)より、東劇、梅田ピカデリーほか、全国ロードショー
(C) 2005 SOTELA ET FAYOLLE FILMS - EUROPACORP - MAX FILMS - FRANCE 2 CINEMA

 『小さな中国のお針子』で日本でも知られるダイ・シージエ監督が、『中国の植物学者の娘たち』の日本公開に合わせて来日した。1980年代の中国を舞台に、自我に目覚めた孤独な女性たちの同性愛を描いた本作は、母国では撮影・公開が認められなかったことでも注目されている。自由の国フランスをベースに映画のみならず文芸の世界でも活躍するクリエーターが、あえて困難を伴う祖国を舞台にした物語に挑んだ経緯と完成に至る苦労を語ってくれた。

-----長くフランスに在住し、フランス語も堪能だと伺っていますが、それでもあえて撮影に様々な困難が伴う中国を舞台とした理由は?

 やはり私は中国人ですから、一番よく判っているのが中国人、中国のことだからです。書きたいものも描きたいものも、中国にあるのです。しかも、中国の話にもかかわらず中国で撮影することができず、ベトナムで撮影せざるをえなかったという、非常に複雑な事情がありました。中国の物語を、フランスの中国人が、ベトナムで撮ったのです。スタッフの中には中国人もフランス人もベトナム人もいて、カメラクルーの大部分はカナダ人という非常に複雑な構成でした。現場では、最初から最後までいろいろな言語が飛び交っていました。カメラマンと役者の間に共通の言語がないので私が通訳することになりましたが、初めの頃は、皆私のことをカメラマンの通訳だと思っていました。何ヵ月もの間、現場で交わされている言葉が全く判らずに撮影をしないといけませんから、こういう作品のカメラマンは大変ですね。

-----そういった困難が伴うにもかかわらず、この映画を撮りたかった理由はどこにあるのですか?

 私が撮りたかったテーマに中国政府が撮影許可を与えなかったので、困難は仕方ないのですが、この題材にこだわったのは、中国国内で活動する監督には撮りたくても撮れないからです。私だからこそ、撮影する自由があるからです。もう一つの理由は、この2人の女性の運命です。実話を元にしているので、中国に人権も自由もない時代が確かに存在したことを、歴史的な事実として記録したかったのです。

-----この映画の元になった事実を知った時から、ずっと映画化を考えていたのですか?

 ラブ・ストーリーは『小さな中国のお針子』が初めてでしたが、もっと撮りたいと思いました。ただし、男女の間の愛は撮り尽くされた感があるので、それ以外のロマンティックなテーマを撮りたいと思った時に、あの事件のことを思い出しました。この映画で描かれているのは、私が理想としているロマンティックで悲劇的な愛なのです。

-----とても女性らしい監督の視点を感じましたが、どのように培われたのですか?

 『小さな中国のお針子』は、私の若い頃の経験を映画化したものです。もちろん、私自身はあの映画に登場する役者のように綺麗ではありませんが、とてもよく知っている世界を映画化しました。今回は、芸術家として全く知らない世界を想像によって自分のものにしてみたいと思いました。全く違う世界により深く入り、近いものにしたい。それこそ芸術です。これは芸術だからこそ可能です。フランスの映画学校の先輩にクレア・ルペールという人がいますが、彼女は学生時代に撮った作品がカンヌ国際映画祭で受賞しています。この作品では黒人と白人、2人の男性の同性愛を描いていますが、非常にすばらしい映画で、男性が撮った同性愛の映画とは比較にならないぐらい美しい作品です。彼女は大学時代から才女として有名で卒業後にもいろいろな映画を撮りましたが、いずれの作品も学生時代に撮ったデビュー作ほどは成功していません。そういうこともあるんですね。

-----光、水、水蒸気、霧といった描写が素晴らしいですが、映像についてはどのようなこだわりをもって撮影されたのですか?

 なるべく水辺に近いロケ地を選びましたが、あのような雰囲気が出た理由は、私にも判りません。ただ、あのような環境では、非常にリラックスして撮ることが出来るのは事実です。また、中国ではあのような映像で雰囲気を出す作品が多いです。中国映画では霧を使う作品が多いのですが、もしかしたら水墨画の影響もあるのかもしれませんね。

-----植物学者の父と軍人の兄は女性を見下している、古い考え方の象徴的な存在として描かれていますが、このような形での個人の自由に対する障害もこの映画のテーマのひとつなのですか? また、そういった問題は未だに中国に残っているのでしょうか?

 この2人の男性は、あくまで2人の女性の視点から描かれているので、必ずしも映画で描かれたままの人物かどうかは判りません。非常にシンプルに類型化された描き方になっています。ただ、この物語で大切なことですが、お父さんは権力を、お兄さんは性を象徴しています。今の中国に限らず、男女の関係では権力と性が切り離せないと思います。今回の映画に関してだけ言えば、あくまで2人の女性から見た物語で、同じ話をお父さんの視点から描いたら感動的な物語になったかもしれません。その時には、主役の2人の女性は悪女に描かれるかもしれませんね。

-----主役の2人にミレーヌ・ジャンパノワとリー・シャオランを起用した理由を教えて下さい。

 中国での役者の起用には、ほとんど選択の余地がありませんでした。大部分の女優たちが尻込みしたからです。この映画のストーリーは同性愛ですが、中国ではこれほど経済が発展しても人々の意識は遅れていて、政府からだめ出しが出る以前に、レズビアン映画に出演することへの恐怖感が女優たちの中にあったのです。中国人女優のリー・シャオランは探しに探して見つけたのですが、彼女にはずっとお父さんに奉仕していた役の雰囲気が感じられますね。ミレーヌ・ジャンパノワは中国に行ったことがなかったし、中国語もしゃべれません。ですから、二人はお互いの言葉が判らないのに愛を演じないといけない。二人の絡みのシーンでは相手が話している内容が判らないのに反応しないといけない、このことは大変だったと思います。

-----なぜ、リー・シャオランは他の女優のように尻込みしなかったのですか?

 だから、彼女は肝っ玉が大きいですよね。一時は、どうしても中国で女優が見つからなければ、香港か台湾で探そうと思ったぐらいです。彼女の雰囲気はこの役にピッタリだったので、出演してくれて本当に良かったです。香港や台湾の女優を起用しても、やはり中国とは文化的距離がありますし、香港の女優だったら私は広東語が判りませんから。

-----前作ではご自身の小説を原作として映画化されましたが、今回はオリジナルの脚本を映画化されました。原作の映画化のアプローチの仕方と、オリジナルの脚本のアプローチの仕方には、差がありますか?

 全然違いますね。特に、前作の『小さな中国のお針子』はかなり売れていた小説の映画化だったので、あまり変更を加えずに小説を活かして脚本化しました。今回は原作のないところからフランス人の脚本家と一緒に脚本にしていったので、細かい過程でいろいろな想像をふくらませる必要がありました。もちろん、小説を脚色するほうがずっと楽です。前作には、それなりに難しさがありました。原作は非常に文学性が強く、人が文学にのめり込んでいくことを描いた作品ですから、本当はあまり映画化するのにふさわしい題材ではありませんでした。
 前作が非常に難しかったのは、中国での撮影が許可されたからです。最初に脚本を政府に提出して撮影許可が下りたのですが、政府に提出した脚本と私が現場で用意した脚本は違うものだったので大きな問題となりました。スタッフの中にいる政府のスパイが提出した脚本どおりに撮影しているか監視しているのですが、撮りたいものと政府に提出した脚本の間で揺れ動き、撮影している内に何だか判らなくなってしまったので、非常に難しかったです。私自身は全く政治的な人間ではないですし、私の作品も全く政治的ではないですが、なぜか政府と戦わないといけないことになり、世間からはずっと政府と戦っている人間と見られ、とても不思議な気持ちです。

-----共同脚本のナディーヌ・ペロンさんとは、どういった役割分担で、どのくらいの時間をかけて脚本を書かれたのですか?

 私に限らず、監督と脚本家が一緒に脚本を書く時には皆同じだと思いますが、具体的なストーリーについて話し合うことはほとんどありません。昨日会った人や子供の頃の思い出など、それぞれが思いついたことを勝手に話し合って、その中で感じたことをそれぞれが書き留めます。その記録を見せ合って、更にお互いに啓発し、だんだんとそれがまとまり、形になっていくのです。それが共同脚本の書き方です。

-----撮影中に脚本を変更した部分はありますか?

 撮影に入ってからの大きな変化はありませんでした。もちろん、ちょっと付け加えるといった細かい部分での変更はありましたが。お金を得るための台本はフランス語で書いているので、撮影現場で使う際には私が中国語に訳しています。フランス語では良くても、中国語にすると良くない部分もあるので、そういう時には変更することがあります。

-----最近の中国政府は、映画をプロパガンダの手段ではなくビジネスとして見るようになってきたので、以前ほど検閲は厳しくないと言っていた中国の監督もいらっしゃいましたが、この作品は中国では公開どころか撮影すら出来ません。経済は発展しても表現の自由は未だ実現せずといったねじれ現象は、これからも続くと思いますか?

 私は運が悪いのです。私はいつも外国の資本で映画を撮っていますが、このような場合にはチェックが厳しくなります。中国国内で中国の資本で撮る場合には、脚本を提出しなくてもシノプシスの提出だけで撮影許可が下ります。しかも、政府は、第一作から私の作品については面白く思っていなかったので、警戒している点もありますね。当局にとっても、脚本だけで出来上がった作品を想像することはなかなか難しい部分もあります。政治的には、今後も共産党がコントロールを続けていくと思います。特に、彼らの堅持する原則、共産党に反するものは語ってはいけない、少数民族問題を語ってはいけない、宗教を語ってはいけない、そういった原則的なタブーは、そう簡単に変わらないと思います。でも、私の作品は共産党に反対しているわけではないですし、これらのタブーには全く抵触していないはずです。ですから、フランスでは、共産党に対する批判精神が足りないと批判されることがよくあります。このように、私は本当にかわいそうでしょ(笑)? 中国では中国共産党に嫌われるし、フランスでは中国共産党への批判が足りないと言われるし。若い頃を回顧した文章を書くと、中国共産党を美化しているとか、回顧主義だとか言われます。どうしようもないですね。

-----今回は、素敵な2人の女優さんに恵まれましたね?

 そうですね。私は、俳優選びでは結構成功していると思います。難しかったのは、2人の言葉が通じなかったことです。

-----リー・シャオランさんは肝っ玉が大きい女優さんだと言われていましたが、それでも2人の女優さんの間には、同性愛を演じることに抵抗もあったと思います。演出の際にはどのような点に注意しましたか?

 もちろん、2人とも同性愛者ではありませんが、この映画で描かれた愛には同情的でした。やはり、女優さんは演技では出来るんですよ、ほんとうにそういう人でなくてもその人になり切ることは出来る。リー・シャオランさんが気にしたのはそういうことではなく、体のある部分は撮らないでほしいということです。いかにも中国の女優さんらしいですが、そういった要求はありました。今回の映画にはベッド・シーンはあまりありませんが、ヌードは何ヵ所かありましたよね? あの撮影では、かなりリー・シャオランさんを説得する必要がありました。いろいろな部分をガム・テープで隠すんですよ(笑)。きっと、日本の監督だったら、有無を言わさず撮るのではないでしょうか? 日本の監督さんたちは女優さんに対して、すごく強い言い方をしますよね。とても怒ったり、「バカ野郎!」と言ったり。私にはそんなことが出来ないので、時間を掛けて説得しました。お互いに良い気持ちで仕事をしたいので、彼女が説得しても同意しないのなら、撮らないし撮れない。やはり、女性を題材にした映画ですから、女優さんを尊重しないといけません。リー・シャオランさんが信頼しているいろいろな人に頼んで、彼女を説得してもらいました。中国人なので、「私は女優ですから何でもOKよ」とはいかないところが難しいところです。両親はどう考えるとか、彼氏はどう思うとか、そういうことを考えないといけないので、私も彼女にすごく同情し、申し訳ないと思いました。でも、最終的には彼女たちはとても協力的でした。出来上がった作品を観た彼女たちは、「こんなに綺麗に撮ってくれるのなら、もっと撮っても良かったのに」と言っていました。あれほど短いシーンのために、あんなに時間を掛けたのは何だったのでしょうか(笑)?

-----一番綺麗に撮れたと思うシーンはどこですか?

 正直に言うと、もっと綺麗に撮れたはずだと思っています。完璧に満足はしていません。これは当事者と見る人の違いだと思います。見る人は他の作品と比較してこれは美しいと思うのでしょうが、当事者はその中に自分がいるので客観的にここが美しいと簡単には思えません。例えば、小説も同じです。どの文章が一番美しいのか、書いた本人には判りません。どの監督も皆同じだと思いますが、自分の作品のどの部分がとか、切り離して考えることは出来ません。私たちが「あなたの体のどの部分が一番好きですか?」と聞かれても、なかなかどこか一つを上げられないのと同じで、全てが自分の体なので、そう客観的に見ることは出来ません。

-----今後、中国で検閲を通るような作品を撮るつもりはありませんか?

 もし、中国で撮影するのなら、検閲を受けざるを得ないのです。例えば、日本の方がフランスで制作費を調達し、日本で撮影することは全く問題ありませんよね。日本政府には干渉することが出来ません。中国では、外資で撮影する場合でも、撮影場所が中国国内なら、中国政府の検閲を受けざるを得ないのです。

-----ということは、今後も外国で撮影を続けるつもりですか?

 中国の作品を外国で撮影することはとても困難です。単なるロケハンの問題ではなく、周囲の人間が皆中国人ではないので、そのような環境で中国の話を撮ることはとても難しいのです。まず、中国の役者を環境に慣らし、あたかも中国にいるような気持ちで撮影に臨んでもらうだけでとても大変な作業です。

-----この映画を観た中国人の方からの反響や意見はありましたか?

 中国国内では、海賊版が売られているようです。観た人の感想は私のところまでは届いて来ないので判りませんが、海賊版はよく売れているそうです。知り合いの中国人で観た人の中では、好きだなという男の人は少ないですが、好きな女性は結構多いようです。男性が好きではないのは「見たいものが見られなかった」からです。よく目をこらして見たけれど、見たいところが見られなかったという意見が多かったですね。だから、彼らに申し訳ないと思います。でも、女性にはすごく好きだという人が多いですね。

-----同性愛の映画というより、自我の目覚めを感じましたが?

 まさにそのつもりで撮りました。中国の女の子は、同性愛でなくても、いつも女の子同士でくっついています。手を握り合って、毎日ご飯を一緒に食べて、ひとつのベッドに寝たりしています。だからといって将来同性愛になるわけではありませんが、なんとなくひとつの芽生えではあると思いますし、人の成長の一過程だと思います。

ファクトリー・ティータイム

飄々とした語り口で撮影の苦労話を語るダイ・シージエ監督だが、その美しい映像からは卓越した才能が感じられる。本人も認めるとおり、決して政治的なメッセージを込めた作品ではないが、それだけに取り締まる側にとっては扱いづらい存在なのだろう。
(文・写真:Kei Hirai)


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