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トップページ > インタビュー > 『サラエボの花』ヤスミラ・ジュバニッチ監督 インタビュー

ヤスミラ・ジュバニッチ監督 インタビュー

2007-11-24 更新

あらゆることには良い面も悪い面もあると知って初めて、人間は強くなれる

サラエボの花

ヤスミラ・ジュバニッチ監督

1974年にサラエボで生まれる。ドラマティック・アート・アカデミー舞台・映画監督科を卒業。本作が初長編作品。
ジュバニッチはアーティストの協会を設立し、そこでたくさんのドキュメンタリーやビデオ映像、短篇などの監督、演出、脚本を手掛けるなどした。彼女の作品は世界中の映画祭や展示会で上映されている。有名な作品の一つとして、短篇『Birthday』(オムニバス『Lost & Found』の1作)——クロアチアとボスニア、それぞれの国の少女がたどる二つの運命を描いたもの——や、2000年に手掛けたドキュメンタリー『RedRubber Boots』——ボスニア人の母親が行方不明の子供たちを捜すというもの——や、ドキュメンタリー『Images From the Corner』——若い女性が戦争で大怪我を負い、その自分の姿を海外のカメラマンが撮影した写真を苦しみながらも直視したという感動の話——などがある。
映画の世界に入る前は、人形師としてバーモントを基盤とするブレッド&パペット劇場で働き、ピエロとして活動していた経験などもある。

配給:アルバトロス・フィルム/ツイン
12月1日(土)、岩波ホール他にて全国順次ロードショー!

 ボスニア紛争から10余年。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボで、ある忌まわしい過去の記憶に苦しみながらも、娘との暮らしを支えるために必死で働くシングルマザー・エスマと、12歳の多感で利発な娘・サラ。母子の平凡な日常から浮かび上がる親子愛と平和への想いを描いた『サラエボの花』。初長編映画にして、世界で多くの映画賞を獲得した本作の若き監督、ヤスミラ・ジュバニッチが、ボスニア紛争後の状況と本作にこめた想いについて語った。

-----今作は、どのような苦境にあっても子供のためだったら乗り越えようとする母親の愛が中心のテーマになっていると思いますが、監督ご自身母親になったからこそ作れた映画だとお感じになりますか?

 本当にその通りよ。自分自身の体験と他の女性たちを、とりわけ紛争時に観察してきた体験が反映しているの。彼女たちは誰もが、そもそも生活というものが成り立っていないような状況でも前向きに自ら行動して、苦境を乗り越えようとしていたわ。母親たちは、何も食べるものが無くても何とかしていただけでなく、毎回違うものを用意したりさえする。私が思うに、女性というのはたとえ困難で破壊的な状況にあっても、持って生まれた内的情動に促されるようにして何らかの創造性を発揮するものなんじゃないかしら。

----今回は機材が不足していたり、経験のあるスタッフが揃わなかったりと、大変な撮影だったということですが、実際どんな状況だったのですか?

 かつて、旧ユーゴスラビアには大きな映画産業があったんだけど、紛争のおかげでボスニアにはカメラなどの機材や編集作業をするラボもない状況に陥ったの。だから機材は海外から輸入するしかなかったし、ラボも他で作業するしかなかったため、どうしても余計なお金がかかってしまった。それは監督にとって大問題だったわ。カメラを返却しなければいけなかったので、撮影をし直すことさえできなかった。映画を職業としていた人たちもどんどん国を出てしまったし、仕事を変えてしまったりしていたので、海外の人たちを雇わざるを得なく、事態はもっと複雑になって、もっとお金もかかったり……。
 製作サイドに関しても、ボスニアはとても貧しく、とにかく何もかも破壊されて、映画産業のみならずあらゆる産業が機能していない状態なので、資金集めも困難を極めたわ。4ヵ国の共同製作にして資金を募るしかなかったの。あと、二つのテレビ局とEUの基金も参加してくれて、それは良かったんだけど、契約とかブリーフィングとか手続き上でいろいろと面倒なことが山ほどあって、実際に撮影に入れるまでにものすごく時間がかかったわ。

-----キャスティングの経緯をお聞きしたいのと、エスナとサラの親子関係がとても自然でしたが、二人がどのように役作りしていったのかお聞かせください。

 まず主人公のエスマに関して言うと、当初はボスニアで役者を探したんだけど見つからなくて、セルビアとクロアチアにも探しに行ったの。ただその頃、セルビア出身の大スターであるミリャナ・カラノヴィッチがサラエボで舞台をやっていたのをたまたま観て、すぐに“彼女だ!”と直感したわ。私はあらゆる感情を表現できるばかりでなく、相反する感情を同時に表現できる女優を探していた。何かをしゃべりながらも、その言葉が意味しているものとは全く別の感情を表情で表現できる人が必要だった。そういう意味でも、彼女はこの役にピッタリだったわ。
 サラ役は、ミリャナと母子に見えて、なおかつ才能と個性がある子を探していて、まず2000人の子供たちを面接し、その中から30人にしぼって1週間ワークショップを行ったの。すごく才能のある子たちが何人かいたけど甲乙つけ難く、中には指示が聞けなかったり、2日後には飽きてしまったりする子もいたわ。このワークショップの間に良い方向に成長してくれる子が必要だった。その中でもルナ(・ミヨヴィッチ)は最初から気に入っていたんだけど、彼女もいろいろなテストをパスしなくてはいけなかった。彼女は映画作りのプロセス自体も楽しんでくれて、自分の出番がないときにも現場に来て、いろいろなことに好奇心を示していた。とても知的で勇気のある女の子で、物語をよく理解し、私に何千という質問を投げかけてきたわ。

 そういえば、今日思い出したんだけど、子供たちを面接したとき、いくつかのことを必ず聞くようにしたの。「映画の中でキスはできる?」「セックスはできる?」「髪の毛を剃ることはできる?」「洋服を脱ぐことはできる?」などと質問して、どれだけ本気でこの役をやりたいと思っているのかを測ったの。本当にモチベーションがあるか知ることが重要だったから。ほとんどの子たちは「やれる」と答えたわ。でも、ルナに脚本を渡したら、髪の毛を剃るシーンがあることにショックを受けて、大泣きしたのよ。「私は醜くなっちゃう。耳がこんなに大きいのに……。綺麗な髪だと言われてるのに……」と悲しんでいたけど、お母さんとよく話をしたようで、翌日になって手紙をくれたの。そこには「ごめんなさい。私は本当にエゴイスティックでした。あなたはサラというキャラクターを作り上げ、さまざまな子供たちの苦しみを体現する女の子の役を私にくれようとしていたのに、私は自分の髪の毛と耳のことばかり気にして、自分が体現しようとする子供たちの思いを考えませんでした」と書かれてあったわ。13歳の女の子がそこまで理解してくれたというのは素晴らしいことだったし、私にとっても大きな喜びだった。
 そんなわけで、ミリャナとルナに決まったわけだけど、二人は本当にお互いのことが好きで、一緒にいるのを楽しんでいた。ミリャナは、ルナと私を随分助けてくれたわ。これは私にとって初めての長編映画だったから。二人と仕事ができたのは本当に素晴らしいことだった。

-----監督ご自身、10代の頃にボスニア紛争を体験されていると思いますが、今回の脚本を書くにあたって、精神的に辛かったことはありましたか?

 脚本を書くのはいろいろな意味で大変だったわ。というのはまず、トラウマを抱えた人物の心理メカニズムの理解に取り組む必要があったから。第一稿は怒りに満ちたものになってしまった。被害を受けた女性たちの証言をあれほどたくさん読んだら、怒りが湧かないわけにはいかないわ。読んでいてとても辛かった。だから、脚本を書くのも大変な作業で、自分の中でも存在していることに気がつかなかった感情が湧いてきて、そうしたものと向き合う必要があったの。
 あと、ミリャナはセルビア出身で、彼女のボーイフレンド役のレオン(・ルチェフ)はクロアチア出身で、ボスニアの人もいたし、キャストもクルーも出身はさまざまだった。一緒に仕事をして、ある意味この映画はみんなにとってのカタルシスのようなものになったと思う。みんなそれぞれの国で違う戦争体験をしてきて、異なった影響を受けてきたわけで、そこでは他民族に嫌悪感や憎悪を抱いていたり、情報に操作されている部分もあったけど、共に過ごしてそうした負の感情が昇華されていったの。政治家たちが長年にわたって嘘を言い続け、私たちは偽の情報に踊らされているということは気づいていたんだけど、いわば自分の国や町に閉じ込められていた状態だったので、それを証明することは難しかった。でも、異なった出身の人たちと一緒に映画作りをしたことで、自分たちの中にあった政治に対する不信感は正しく、私たちなりの平和を生み出すことができたと感じたの。そしてこの映画がさらには海外に出ていき、いろいろな方たちに私たちのエネルギーとメッセージを伝えられるのはとても素晴らしいことだわ。

-----日常をとても丁寧に描いていて、二人の関係を浮かび上がらせるのにとても効果的でしたが、このような手法にした理由を教えてください。

 エスマには秘められた過去があるという事実が裏にあったとしても、それを明らかな形で出さないことが、私には大切だった。料理をしていたりアイロンをかけていたりなど、彼女の普通の生活を観察することで、表面下に何かがあると感じ取ってもらいたかったの。このテーマを派手でドラマティックな形では扱いたくないという前提があったので、日常を描きながらどのような表現をするかということを考えたわ。そのほうが観客も自分自身に引き寄せて見られると思ったの。これは世界中どこでも誰にでも起こり得ることだし、今回のような場合に限らず、日常のどんな出来事でもトラウマになる可能性はあるわね。だから、日常を描きながら微妙に何かを感じ取ってもらえるようにしたかった。そんなわけで、いろいろなリサーチをしながら、自分の人生経験も交えつつ、エスマという女性を肉付けしていったの。

----エスマのような目に遭い、子供を育てている方に実際にお会いしたのですか?

 私は、ボスニアのみならず、世界中で同様の被害を受けた女性たちに関する本を出来る限り読み漁ったわ。トラウマについてもリサーチしたし、女性を蹂躙するような行為そのものに関して哲学的な考察をしている本も読んだ。とにかく、さまざまな社会学的、精神学的、哲学的な観点から考察している書物を読み漁ったの。同様の行為は戦争という状況のみならず、日常の中でも世界中で行われていて、それはひとつの性によるひとつの性に対する力の行使だと言えるわね。そうした理論的なリサーチと並行して、実際に強制収容所に入れられて、何ヵ月にもわたって被害に遭った体験のある大勢の女性たちにもお話を伺ったわ。
 特に、そうした状況で娘さんを産んだ女性とも知り合いになったんだけど、彼女は当時の話を全くしたがらなかったし、自分の子供に過去のことを知られるのを恐れていた。そんな彼女に私は、この脚本を読んでアドバイザーになってほしいとお願いをしたんだけど、「それは出来ないけど、あなたが家に来て、コーヒーを飲みながら天気なんかの話をするくらいならいいわよ」と言ってくれたの。彼女と一緒にいるだけでも、私にはすごく役に立ったわ。彼女と娘さんとの関係をこの目で見られたし、その雰囲気を肌で感じることもできたから。もっとも、彼女はエスマとはあらゆる面において違う女性だったわ。エスマはさまざまな女性たちや私自身の想いが混在した存在だから。
 強制収容所で被害に遭い妊娠した女性たちは中絶を禁止され、平和だけど自分の全く知らない国、例えばスウェーデンやデンマーク、ドイツやアメリカなどに送られて子供を産んだの。でも、精神的外傷と知らない国にいるというストレスから、子供を手元に置くことを拒絶し手放した人たちも大勢いるわ。子供がそばにいたら、いつまでもトラウマから逃れられないという思いが彼女たちにあったことは想像できる。だから、実際にこういう形で生まれた子供が何人いるのか、正確な数字は誰も分からないの。自分の子供がどういう経緯で生まれたかは口にしたくないことでしょうし、たとえ、一緒に暮らしていても、ほとんどの女性は子供に事実を話してはいないわ。それが彼女たちにとっては子供の人生を守るすべなの。

-----ボスニアで大変辛い目に遭わされた女性たちは今も心に傷を抱えていると思いますが、被害者の方たちの現在の様子はご存知ですか? 彼女たちに対してはどのようなケアがなされているのでしょうか。

 私たちの社会では彼女たちをきちんとケアしていないというのが現状なの。被害者の方たちは被害者とさえ認定されていない。それがまた、新たなトラウマを生んでしまっている。社会が救いの手を差し伸べなかったばかりに、彼女たちは未だに癒されていない。国際的な機関が彼女たちのサポートに動いて、集団セラピーなどを行ったりしたことはあっても、残念ながら私たちの国自体は全く何もしていないというのが事実ね。それは、政治家たちが主に男性であるということもあるかもしれない。彼らはもっぱら、兵士や兵士だった子供を亡くした母親たちの救済しか考えていない。政治家たちは選挙の度に、こうした被害者たちと一緒に写った写真を利用しているわ。でも、一般市民としてトラウマの残るような被害に遭った女性たちと一緒に写るのはクールじゃないんでしょうね。実際に彼女たちの救済活動が始まったのはこの映画が公開された後で、女性を支援するいくつかの機関と協力して、映画を観た観客の署名を集める活動をしたの。その署名を議会に提出して、一般市民の戦争犠牲者が少しでも尊厳を取り戻せるような法の制定を求め、ようやく彼女たちも被害者として認定されるようになったという経緯があるわ。

-----サラというキャラクターはサラエボの未来として位置づけられると思いますが、監督は彼女にどのような想いをこめられたのでしょうか?

 脚本を書いている段階で私は、一般の女性たちに対する惨い行為が92年に始まったことを知り、そのときに生まれた子供は13歳になっていると分かったの。そのくらいの年齢は設定としてもうってつけだった。というのは、自分自身のアイデンティティーに疑問を持ち始め、あらゆる社会的な規範に反抗する時期だし、その一方で社会に適合できないことに恐れを感じたりもする年代だから。最も不安定な状態にある時期だわ。サラはとても強いキャラクターであると同時に、観客が好感を抱ける存在でなければいけないとも考えていた。ただ逆に、憐みを感じさせることは避けたかった。自分の生活の中で何か悪いことが起きているとは彼女自身も感じているけど、可哀相な犠牲者だと思ってほしくはなかったの。
 彼女は自分の人生をそのまま続けていかなくてはいけない。その未来は開かれていると私は思っているわ。そして愛こそがそれを開く希望の鍵になっている。彼女自身は何かが変で、どこかに嘘があるということは何となく感づいているけど、その理由が分からないでいる。そう、彼女は国家の歴史における明と暗の両面に向き合わなければいけない新しい世代を体現している。明るいだけの歴史しかない国はないし、私たち人間には必ず善悪の両面がある。そこを理解することがとても重要だと思ったの。

 私は社会主義の中で育ってきて、社会主義の良い面のみを教えられてきた。チトーやパルチザンは何もかもが正しいとか。でも、ある日突然、悪い面もあると知り、私はそれこそ凍りつくような思いがしたの。あらゆることには良い面も悪い面もあると知って初めて、人間は強くなれるのではないかしら。事実を知った今、社会主義には素晴らしい側面もあるけど、何が間違っていたのかも、今の私は言うことができる。
 そういう意味で、サラは物事には善と悪の両面があるということを知る未来の存在そのものなの。ただ、きれいな結末をつけるつもりはなかった。自由に解釈できるようにしたの。今度は新しい世代の監督たちに、サラのこれからの人生を描いてほしい。私はむしろエスマとつながっていると思うし、私の想いは彼女が見る真実、彼女が語っていることにこめられているわ。

-----サラエボ紛争が背景にあるのは確かですが、監督のこれまでの活動を拝見すると、母と子供の愛、絆の強さをテーマにされてきた気がしますが、それは今後も描いていきたいことですか?

 それは意識的なものではなかったの。この映画を観たあるジャーナリストに「あなたの作品は全て、母性ついて語っている」と指摘されたことがあるんだけど、よく考えてみると、それは確かにそうかもしれないと思った。無意識的ではあるけど、もしかしたら自分の中のどこかで問題として感じていることなのかもしれないし、成長する過程で何かあったのかもしれないし、また、自分自身が母親になったということもあるのでしょうね。ただ、繰り返すけど、新しい映画を構想したり脚本を書こうとしたとき、“母性について語ろう”と意識的に考えたわけでは決してないの。とはいっても、今後また映画を撮るときには、無意識的にそうしたテーマを取り上げていたことが分かったので、改めて意識することになるでしょうね。

ファクトリー・ティータイム

まだ30代前半という若さながら、想像を絶するような惨い紛争を経験してきた人々の一人である監督。「ごめんなさい、英語は母国語ではないので……」と申し訳なさげにことわりながらも、とつとつと熱く語るその言葉からは流暢な語彙が表現できるもの以上に、その想いを伝えてきた。この方にはまだまだ、語れるものがたくさんあることだろう。
(文・写真:Maori Matsuura)


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