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『テロルンとルンルン』
オフィシャル・インタビュー

2020-08-21 更新

岡山天音


テロルンとルンルンterrolun-and-lunlun
© buzzCrow Inc.
配給:SPOTTED PRODUCTIONS

岡山天音

 東京都出身。
 2009年、「中学生日記シリーズ・転校生(1)~少年は天の音を聴く~」で俳優デビュー。
 最近の主な出演作に、映画『氷菓』『愛の病』『神さまの轍』、連続テレビ小説「ひよっこ」「平成物語」など。
 2017年公開の主演映画『ポエトリーエンジェル』で、第32回高崎映画祭最優秀新人男優賞を受賞。2020年『ワンダーウォール劇場版』や『青くて痛くて脆い』など話題作への出演が続く。
 個性的なルックスと柔和な演技で映像を中心に活躍。



 「中之島映画祭」グランプリ、「横濱インディペンデント・フィルム・フェスティバル」中編部門最優秀賞&cinefil賞、国内外40以上の映画祭を席巻してきた『テロルンとルンルン』が、本日8月21日(金)より劇場公開中。『ワンダーウォール劇場版』『青くて痛くて脆い』など話題作に次々と出演がつづく俳優・岡山天音と、ドラマ「中学聖日記」(TBS)や映画化が決まった舞台「アルプススタンドのはしの方」でも圧倒的な演技力を見せた小野莉奈がW主演。CMディレクターとしても活躍してきた宮川博至監督が、故郷の広島を舞台に、社会から孤立した2人の交流を繊細に描いた本作で、実家のガレージに引きこもっている青年・類を演じた岡山天音が、本作の人物像やロケセットであるガレージの様子や、コロナ禍における映画の役割などについて語った。


2018年に自主制作映画として作られた本作のオファーを受けていかがでしたか?

 スタッフもキャストの人数も限られていたので全員野球みたいな感覚でしたね。ありがたいことに役者の仕事が増えてくるにつれて、逆にそういう作品に参加できる機会は少なくなっていて。そういった中でこのホン(脚本)と出会えて、その現場に入れるのは本当に嬉しいなと思いましたし、その意味でもモチベーションは高かったです。


限られた空間と人間関係の物語から、どのように類の人物像を作り上げていったのですか?

 ホンの中の類は、上映時間の中だけに存在している人としてではなくて、ちゃんと生きている人として愛情を込めて描かれていたんです。なので“ホンの美しさ”みたいなものときちんと向き合うことが一番ヒントになったかもしれません。こういう人が現実に生きていてくれたらいいなと思いながら、自分が実際に経験してきたものと重ね合わせていきました。


類がその大半を過ごす部屋のロケ・セットからはどんな影響を受けましたか?

 撮影が始まる1日前に現地に行って、類の部屋になっている倉庫に行かせてもらいました。そこで美術を担当された部谷京子さんに、どこに何があるとか説明してもらいながら、実際に椅子に座ってボーッとしたり、いろんなものに触ったり。本当に丁寧に作り込まれていたので感動しましたね。何となくの雰囲気で置かれているものが一つもなくて、一つひとつに血が通っていて、どういう経路でそのものがこの部屋に来たのかが見えてくる。一俳優として、ここでお芝居できるんだと思ってテンションが上がりました。それと同時に、類を演じることに対する気の重さ、考えたくないことを考えなければいけない日々が明日から始まるんだという予感がして、高揚と頭が重くなる感じの両方がありました。


あの部屋に引きこもっている類とは演者としてどのように向き合っていたのでしょうか。

 類の人生で起こっていることは全て自分の人生の中にもあるものだと思っていたので、類を自分に置き換えることをしていました。類が修理をしている時間はたとえば岡山天音にとってのどういう時間に近いんだろう、類が直面しているものが僕にとっては何になるのか、もしかするとそれはものじゃなくて人かもしれない……とか。壊れた玩具やそれを直す行為を一度抽象化して、自分の中にある記憶とつなぎ合わせる作業は、大事にしていた記憶があります。


terrolun-and-lunlun

たとえば玩具を修理することは、自分のどんな時間や体験に置き換えられましたか?

 「母親といる時間」という要素はあったかもしれないです。うちは母子家庭だったんですけど、子どもの頃に母親と一緒に部屋で過ごした時間とか。それが類の時間と100%同じ成分かというとそうではないんですけど、類にとって修理中は「安心している時間」である気がしたので、そういう意味で母親との時間に重なるものがありましたね。


壊れたものを直す作業は、類が自分自身を再生する行為でもあったのでは。

 類の抱えているものやその目に見えているものは大きすぎて、自分とは全く違ったのですが、そこから目を離さずに自分の実感のあるものとして演じなければならないと思っていました。俺自身もとにかく大変で余裕がなかったんです。類という人間に対して誠実に向き合わないと、少しでも目を離した瞬間に分からなくなってしまうような気がして油断できないというか。類と自分とのギャップをギャップのままで終わらせたくない、でもその間の溝は深くて、それを埋めようと必死になっていたんですよね。だから瑠海役の小野莉奈さんともあまりしゃべれなくて。もしそのテンションに現場全体が染まっていたら作品としてしんどいものになっていたかもしれないんですけど、宮川博至監督は常にフラットで柔らかい居方をしてくれたので、とても救われました。


類にとって瑠海との出会いはどんな力になったのでしょうか。

 気づいたら自分以外のことを考えていた、みたいな感じですかねえ。それまでの類は自分のこと以外は考えられなくて、その事実にすら気づいていなかったかもしれないけど、そこに瑠海が強引に入ってきて、気づいたら一度も考えたことのないことを考えていた……みたいな。そういう意味で、瑠海は類にとって初めての「他人」だったんじゃないかな。


自分以外の人のことを考えることが、自分を救うことにもつながるのかもしれません。映画が終わった後、類はどうなっていくと思いますか?

 そこがどうなっていくのか全然分からないのが、この映画の面白さかなと思っていて。終盤の類の行動が次に進む一歩目なのかどうかも分からないし、類も自分でよく分かっていない状態の中で、むしろ結論のようなものを出したくないという思いがあったかもしれないですね。少なくとも何かを予測させるようなところにこちらから誘導することはあまりしたくないと思っていました。予感で埋めてしまうのではなくて、どれだけ余白を余白として残せるかを考えていました。


本作で描かれている「外に出る」ことが、今の世の中では別の意味を持ってくるようにも感じられます。

 ちょっと大きな言い方になっちゃうんですけど、この世の中には自分以外にも人間がいるということを、楽しんで欲しいなというふうに思っていて。今の時期に公開されるからからこそ特に、外の世界に自分以外の人間がいることが、ふと楽しく見えるきっかけの一つにこの映画がなってくれたらいいなとは思います。


映画業界に携わる一員として、コロナ禍の世の中で映画にできることは何だと思いますか?

 映画って「ズルい」ものだと思うんですよね。観ると自分以外の人生を味わえちゃう。普段の生活の中ではそういう感じ方はあまりできなかったけど、自粛期間中に久しぶりにたくさんの映画を観て、映画ってそれぐらいパワーのあるカルチャーだと思ったんです。単純に違う世界を知れる、別の世界を垣間見ることもできるし、自分と登場人物を重ねて客観的に自分を見たり、それを反面教師にして生き方を改造したりもできる。あらためてとてつもなくワクワクするコンテンツだと感じたので、実人生を変えるぐらいの湿気や体温みたいなものがスクリーン越しに伝わってくる作品に、また出演できたらいいなと強く思っています。



(オフィシャル素材提供)




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